Ⅰ.日本神経化学会50周年に寄せて

初代理事長  塚田裕三

世界最初の神経化学学術集団が出来て50周年を迎えました。日本の神経化学研究は昭和初頭から九大、岡大、東大の精神科の研究室から始まりました。それは形態的に著変の無い精神病の病因を物質変化に求めようとする試みからでした。昭和33年(1958)、大阪で開かれた日本精神神経学会で「神経化学、体液病理懇話会」が発足し、これが今日の日本神経化学会のスタートとなりました。

その後、生理、生化学、薬理など基礎系の若手研究者が参加する様になり、規約等を策定して昭和37年(1962)「神経化学懇話会」が設立され、活動の中心となる常任委員には30代の若手研究者があたり、活発な活動が開始されました。

その時代の学術集会での目的は討論時間を充分にとり、徹底的な討論を行なう事でした。それには、発表希望者は予め詳細な発表要旨を選考委員会に提出し、委員会は終日発表の可否を論議して口演者の選定を行なってきました。これには権威を恐れず討論に相応したものを厳正に選ぶという若手研究者の意気込みがありました。

しかし一方では研究発表の自由を奪うものとの批判が多くあつた事も事実でした。それでもその後30年余にわたり継承され、本学会の特質・伝統となってきました。これは日本国内での神経化学研究を発展させるのに大いに貢献したものと自負しております。今日50周年を迎え、国際的にも確固たる基盤を築かれてきたことはご同慶の極みです。

精神病の病因解明に端を発した神経化学研究は、今や分子・遺伝子レベルの研究に移り大きな進展を見せている事は評価さるべきことと思いますが、同時に初心に戻り臨床医学的な視点も重視されなければならないと考えられますし、また当学会の特徴であった充分な討論をする場として活用されることを望みたいものです。

脳研究を目指す新鋭研究者の今後の活躍・発展を期待致します。

Ⅱ.日本神経化学会を振り返って

学会回顧第二代理事長 柿本泰男

1.学会回顧

1-1.学会初期の頃

当時この会は2000字くらいの研究の要約に加えて図表も事前に提出することになっていた。学会の一ヶ月位前にはそれらが会員に配布された。教室では全論文について、毎朝数題ずつを誰かが担当し、討論を行った。優れた点は学び、問題点も次々と指摘された。大体30から40題位だったので、一日2時間、10日位で合計20時間くらいかけて討論した。それから懇話会に出席する。

学会では10分発表の15分討論だったかと思う。全発表に対して、われわれのグループから2,3人は討論に加わった。大阪なまりで遠慮なしの討論だった。またあのグループか、とわかったようである。やるとやられる。やられるからいい加減な研究は発表しない。討論の激しさはすごかったし、それが面白いと参加される先生もたくさん居られた。いやになって発表をやめる人も何人かいたようだ。それに負けずにやって来た人達が今日まで続いている。学会では抄録をもとに審査委員会もあった。それは8人くらいの泊り込みで二日間である。学会とほぼ同じ時間を費やした。私もそれに加わるようになって、研究を見る目は肥えたと思っている。

1-2.松山大会

私が大阪から昭和50年に松山に移って数年後、松山で学会をさせていただくことになった。まだ愛媛大学医学部の卒業生が出て2,3年位である。その頃は神経化学会も成長して会員も数百人になっていた。ところが、愛媛大学精神科で神経化学会のことを知っているのは私と三宅君(現神戸学院教授)と二人だけである。それに資金もなかった。外人もDr. Nierenbergをはじめ5,6人来た。考えられるのは何かユニークな学会で安上がりなものにすることである。松山の山地に奥道後ホテルとそれに連結して3,4軒のホテルがあった。それを三日間全部借りた。会員全部をそこに泊まっていただく。するとホテルの会議場の料金は要らない。3,4会場が準備できる。泊まっていただく部屋を決めるのは大変だった。三宅君が苦労して配置を決めた。原則、男女は別、夫婦は同室、くらいは決められるが、その調整は大変だった。あいつは嫌だとか、シングルにせよとか、未婚のカップルは一緒とか注文だらけだったが、なんとか開催にこぎつけた。学会は、そうした全員泊り込みの三日間だった。夜には種々のシンポジウムや学会改革委員会とかが深夜まで活発に行われて成果は出たようだった。私達ができたのは夜の集会にウィスキーを配ることだけだった。いろいろご不満もあったと思うが、そこから学会改革の次の芽が出たといわれて、嬉しく思っている。

1-3.APSNの発足

塚田先生に次いで学会の理事長に私がならされた。私宛に一会員として塚田先生から手紙が届いた。「これからAPSNを作って4年以内に日本で開催すること」とある。断る理由もないので決心した。アジア・オセアニアといっても、日本とオーストラリアを除いては神経化学の研究があるのかどうかも分からない。日本以外に神経化学会の無いことだけはわかった。各国の誰に聞いてよいのかもわからない。中国、台湾、韓国、インド、マレーシア、シンガポール、ニュージーランドのそれぞれ2,3の大学に手紙を出した。すると、神経学会、神経解剖学会、神経薬理学会などがあることがわかった。そしてそれらの名簿がある所からはそれをいただいた。名簿を作成するにもその国の母国語である。わからないから英語にしてくれといっても断られる。インドでは、ある大学の教授から「同じ手紙を他の教授に送った」と腹を立てられる。
「俺の方がボスだ」と。中国の分は中国からの留学生に頼んでなんとか英語に変えてもらってパソコンに一本指で打ち込んでいった。そうこうしているうちにボスらしい人もわかってきた。これらを集めてとりあえずの名簿として印刷した。それから一人で会則案をつくった。その頃にはオーストリアの何人かの人たちが意見をくれるようになっていた。シドニーで開かれたISNのある日の夕方、アジア・オセアニア諸国の人々にある古いホテルに集まってもらった。会合を始めた途端、オーストラリアの某氏がまるで会長であるかの如き行動に出た。このアホウがと思ったが辛抱した。一応それでAPSNが成立した。この会には日本神経化学会員も数名出席してくれ心強かった。現在鹿児島大学の佐野輝氏には相当手伝っていただいた。会則も承認された。日本神経化学会から5000ドル相当の補助をいただき、同額をISNからいただいた。これを期に日本でAPSNが開かれ、今日まで継続発展していることは喜ばしいことである。

2.学会回顧

学会回顧東京医科歯科大学名誉教授  融 道男

私が、本格的に神経化学会と関わるようになったきっかけは、1960年9月に、東京医科歯科大學精神科の高橋良助教授の神経化学のグループに入ったことである。けいれんのメカニズムを動物実験により、脳アセチルコリン、アンモニアを測定した。実験結果は、毎年開催される日本神経化学会で審査を経て発表したが、いつも厳しい討論があり、大いに勉強させられると共に触発されて面白かった。1960 年代早期には、本学会での発表結果が原著論文として「神経研究の進歩」(医学書院)に掲載された。長い間、この学会での発表を続けていたが、その後、日本神経精神薬理学会(1971年)、日本生物学的精神医学会(1979年)などができて、神経化学領域の研究発表の機会が増えた。一方、神経化学会の国際的な活動も活発になり、私にとっても印象深いシーンが数多く心に刻まれている。

神経化学会の創立50周年を迎えて、神経化学会会員が世界をリードするような優れた仕事を発表し、国際的舞台での活躍も年々目立ってきていることを改めて心強く思う。今後の益々の発展を期待している。

3.日本神経化学会の始まりの頃

名誉会員 山川民夫

神経化学会が発足して50年とうかがいその当時から塚田裕三先生とご一緒にいくらかお世話をいたしました者として、昔を思い出して一筆する次第です。

この会の前身は神経化学懇話会で昭和33年に塚田先生が中心で高坂睦年先生、佐野勇先生などを語らって始められたと記憶しています。確かその頃発刊された「蛋白質、核酸、酵素」にそれに関する座談会記事があって臺 弘(うてな ひろし)先生かどなたかが脳を化学的に理解することは不可能かというignorabimus と言う言葉を書かれていたのを覚えています。(記憶違いかもしれません)。

ただ脳を構成する物質として19世紀末にセレブロシド、やスフィンゴミエリンを発見したドイツのThudichumは神経化学の父として崇められていますが、それらの物質でも脳神経の機能に関しては本当の意味は今でも解明されたとは言えない状況です。

次の大きなイベントは1965年の10月にH.Waelschと塚田先生がオーガナイズされて大磯のロングビーチホテルで開催された日米神経化学カンファレンスでした。

私もその頃東大伝染病研究所(現在の医科研)におりましたが組織委員に加えて頂いてプログラムの編成などに参加しました。でもアメリカの学会の事情に詳しい塚田先生や高垣玄吉郎先生らが実際に企画をリードされました。そのときの抄録集が保存してありましたので見てみますと、アメリカ側の参加者にはFolch, Lajtha, Udenfriend, Sutherland, Larrabee, Axelrod, Waelsch, Lowry, Ames その他の大物が目白押しでこういう方々を招いてこられた塚田先生をはじめとする日本側の努力に感銘した次第でした。

プログラムの案を作成しているとき大変ユニークな佐野先生が所々にBreake と書かれてあるのを見て「このBreakeと言う人は何度も話すのですか」と言われて大爆笑でした。

その頃日本での年会はせいぜい1会場で2日間でしたので会の前に委員たちは出題された抄録が多いのでトコトンまで読んで、議論して演題数を減らす努力をしてプログラムを編成しましたが「今は昔」の物語になりました。現在の盛況を見るに付けて感無量です。

4. 「神経化学会現代化委員会」始末記

名誉会員 加藤尚彦

1980~85年の間に、1987以降の本学会と神経化学(又は科学)の隆盛と発展の基盤となった本学会の組織改革が多くの学会員によって推進された。

改革は本学会の良い伝統を尊守し、多くの学会員参加による学会運営を目指し、学会員の多様化と学問的趨勢に対応して学会活動を活発化する事を目的とした。①12人の任期4年理事、6人ずつ2年毎の選挙、2年の不応期設定。任期2年の理事会選出理事3人を置き分野や選出地域を調整する。②理事定年65才とする。③1982年永津俊治主催第25回川崎学会と1983年垣内史朗主催大阪学会による試行を踏まえて、主催者(世話人)主導による大会運営(徴収した大会費による運営,発表論テーマ別文審査)。④学会事務センターの活用。⑤抄録集を全会員に配布(学会費と抄録集費を統合して費用節約)。⑥英文抄録の出版(Neurochem. Res.の別刷として高垣により実現)。

以上の改革は各委員や理事会員、全会員の協力支持が必須であったが、特に佐武、宮本両先生の尽力貢献は筆舌に尽くし難い。更にある時電話で怒鳴られはしたが、改革を受け入れた塚田理事長の度量の広さも特筆に値する。今後もなるべく多くの会員が学会運営に直接参加し、常に改革を継続することが学会と学問繁栄の基となろう。

5.日本神経化学会の歩み

編集:工藤 喬、田代朋子、今泉和則

その他